みなさん、お久しぶりです。大変お待たせしました。
今年もどうぞ「阪急お客さま新聞」を宜しくお願い申し上げます!


     *contents*
☆「ありがとう」と「すみません」
☆お客さまの声
☆社員のないしょ話5
☆明治時代、文学の足跡をたどる旅2






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    「ありがとう」と「すみません」
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先日、地下鉄に乗っていると ドアが開いて人が乗降車していました。
僕はシートに座っていて見るとはなしにぼんやり見ていたのですが、あるご婦人が手袋を落とされました。
「ああ〜っ」と思っていると、傍にいた人が「手袋落とされましたよ」とその方に教えてあげました。
「あらっ どうもありがとう」と落とした人が受け取りました。なぜかとっても心が温まる微笑ましい風景でした。

というのも落とした人も拾って声をかけた人もどちらも“笑顔”でしたから。
これはどういうことだろうとしばし考えていましたが、すぐわかりました。それは落とした人がこう言ったからです。
 「あ・り・が・と・う!」
僕自身もそうですが、こういう場面では、拾われた方はつい「すみません!」って言っちゃうんです。
そしてバツが悪そうにこそこそと足早に立ち去る。これだと拾って声をかけた人もなんとなく恥ずかしい思いをさせてしまったなという印象になります。「ありがとう」は人をしあわせにする“魔法のことば”なんですね。

イタリアは完全に「あ・り・が・と・う」の世界です。
イタリア人は人生の内、何回「ありがとう(グラツイエ)」ということでしょう。僕の印象だと1日20回以上は言ってると思います。
逆に「すいません(ミスクージ)」という言葉はほとんど使いません。
人々を笑顔にする万能の言葉「ありがとう」日本語の響きもとっても良いですね。
しあわせを呼ぶことば「ありがとう」をもっともっと僕も使おうと思いました。
笑い虫がたくさんやって来るかもしれませんね(その21参照)
(文・田中 慎二)



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     お客さまの声
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【私のプチ国際交流】

以前、銀座線と東西線を利用していたときのことです。この路線は外人さんがよく乗っています。私の隣に座った方にはなるべく日本語で話しかけました。イングリッシュはカタコトです。
*20代の青年に「お国は?」と。「カナダから音楽を勉強に。」バイオリンのような楽器を持っていました。
*渋谷から始発に飛び乗ったとき、40代の女性が同席しました。コロンビアからの日本人三世。
*国にいる長男を大学に入れる為の学費を稼ぎにきているとのこと。どんな仕事をしているかは聞きませんでした。
*東西線で会った婦人に「日本語がお上手ですね。」と言うと「2年前まで沖縄の大学にいました。国は当時バンダラナイケ首相のトラブルのあった頃でした。」「お国が大変ですね。」と言ったら表情を硬くしました。エンジニア。
*津田沼から飛び乗ったときでした。混んでいて立っていました。成田からのオーストラリアの添乗員らしい人達が10人くらいいました。私の隣に日本人男性で50代くらいの英語の話せる人がいました。「どうして日本人の若い人達は昼間から座席で眠っているのか。」と聞かれていました。私は咄嗟に「日本は老人が元気で若者が疲れていると返事してください。」と頼みました。オモシロイでしょ。私はそれ以後車中では眠らないよう耳たぶにイヤリングをして乗って本を読んでいます(耳を刺激すると眠くならないとか)。
(70代 匿名希望)

*編集部より*
日本にいても東京では色々な国籍の方々と触れ合う場面がありますね。特に電車の中では短い間でも多種多様な人達に会うことがあるので面白いと思います。ただ直接会話をするとなるとその経験は少ない方の方が多いのではないでしょうか。また話題も選びかたも難しいのでこのようにお話ができるのは素晴らしいと思います。


【私の旅2007】

トルコの街を歩いていると細い路地にせり出すように日用雑貨品を積んだり下げたりして売っている商店が多い。ブリキやアルミを打ち出して作ったような什器、不恰好そのものだが、素朴で何とも味わいのある鍋、フライパンだ。その中に大きな樽に山ほど「どんぐり」を入れて売っているのを発見。「あら、どんぐりなんて売ってる!」思わず声を出してしまった。前を歩いていたガイドさん「ヘーゼルナッツ!!どんぐり違うよ。」と。でも我が家の近くの林に生えているナラの木の実(真ん丸い形のどんぐり)と寸分違わぬものなのである。私の知っているヘーゼルナッツは表の皮も渋皮も剥いて白くきれいなものだけ。初めて知った。「ヘーゼルナッツはどんぐりなのか!!」2007年の旅は10月のグランドキャニオンに始まり、12月のどんぐり(?)で終わった。
(60代 Y・W様)

定年後、自分のご褒美として2ヶ月に1度海外に出かけて5年目が経ちました。世界遺産を訪ねる楽しみがあります。2007年はオーストラリア、中国のアモイ、北欧、韓国、台湾一周、カムチャッカ、ペルシャ(イラン)、ウズベキスタンとまわりました。ペルシャでは男性の便器がなく、座ってトイレすることを初めて知りました。紙の用意はなく、バケツの水やホースで洗うのです。ウォシュレットの先進国です。そういえばモロッコやチュニジアも同じでした。イスラーム教の教えのようです。ガイドから恋愛結婚はないと聞いて絶句。街行く人の美人の多いことに目を奪われたのに。各地で笑顔で話しかけられ、随分と被写体にもなりました。
(60代 T・T様)

*編集部より*
どんぐりと、へーゼルナッツが見た目が同じ?、私も初耳です。普通のことが旅行中に再発見できるのも旅の楽しさなんですね。旅行先でのトイレの話は尽きません。所変われば作法も変わりますから話題になりやすい様です。特に生活に密着した話は面白いですね。

【旅に持参したもので・・】

*持っていっても使わなかったものなど

コンピュータ・バスタオル・ペーパーロール・余分な衣服・ナイフ、フォーク・箸・ダウンジャケット・ポンチョ・レインスーツのズボンの方・トラベル枕(飛行機で使うもの)・腰当て。
(50代 匿名希望)

靴用のホッカイロ(ヨーロッパは日本の寒さと違ってカラッとした寒さなのでつま先はさほど冷えなかった)。辞書(ガイドブックに載っているような一言英語程度で充分です)。
(50代 M・M様)

最初の頃はラーメンなども持っていきましたが、その国の食べ物をできるだけ食べようと日本からは持っていかないように決めました。梅干・ラッキョなどはガイドさんに全部差し上げてきました。
(60代 S・N様)

*持っていって良かったもの

トラベルシーツ(絹製の寝袋にもなる)・ポケッタブルザック・パッカブルトートバッグ。
(50代 匿名希望)

小分けパックの味噌汁(やっぱり味噌汁が飲みたくなるものです)。シャンプー(訪れる国にもあるが、泡立たなかったりもするので)。
(50代 M・M様)

*編集部より*
旅行の用意はいつも頭を悩ませます。使うつもりでも結局使わなかったり、必要なものをうっかり忘れたり、結局はきっちりメモをとっておくのが一番の様です。必要なものはたいていその場にならないと思い出さないこと、どなたも経験があるみたいですね。

【お客さま新聞を読んで】

お客さま新聞32にもありましたが、もっと一人旅の開発に力を入れてください。前にいただいた「阪急THE温泉の旅」を見ると一人OKは殆どありません。某他社ではバス旅行43名中一人参加は20名を超えています。その人達はもちろん一人部屋をもらっています。一人で旅行したい、又一人でしか行けない等いろいろだとは思いますが、これからは寿命が延びて良い反面、伴侶を失う人が多く出ていることもあるのでこの点を勘案して一人旅が出来るプランを多く出してください。旅館、ホテルに協力にアプローチしてください。
(70代 Y・M様)

32号でN・S様の投稿「今度はクロアチアと思ったが、良い日は満席でやむを得ず来年」ということですが、阪急にしているとのこと、良い選択と思います。私もヨーロッパはほとんど行っているので先日クロアチアに行ってきました。都合の良い日はやはり私も満席でしたので他社のツアーで行ってきました。現地へ着いたら、同社の参加者が飛行機は別々だったので気づかなかったが、大勢で約百人程。それが全行程同じホテル。朝食は遅くなれば食べるものなし。行く先々で観光も混みあい大変でした。それに早朝出発、遅いホテル到着で疲れにいったようなものでした。その後、値下げ見出しで参加募集をしております。この会社のクロアチアだけは参加を勧めません。しまったと思ったときには後の祭りでした。
(60代 Y・K様)

続!江戸・東京を旅しように元気をいただいて、夏目漱石を今年予定しています。再読するのが楽しみです。
(70代 匿名希望)


*編集部より*
お一人様参加専用コースのご希望はよくいただくのですが、お部屋割りで問題があった場合に、旅行先でお部屋の追加を必ず用意することができない為ご希望に添えないのが現状です。ご理解をお願い致します。


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    社員のないしょ話5
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みなさん1月も半ばにさしかかりましたが、お元気でしょうか。年末年始、会社でも風邪をひいている社員がとても多かったのですが、今の風邪は喉や鼻が辛いようです。みなさん風邪にはお気をつけ下さい。そして、本年もどうぞ宜しくお願い致します!☆∮。・。・★。・。☆∮。・★・。 ☆∮。・。・★。・。☆・∮。・★・。☆∮・。・★。・。☆・∮。・★・。

もうすぐ2月。フランスのニースでは毎年2月〜3月にかけてカーニバルが開催されます。
私もパリに研修に行っていた2001年2月下旬に行ってきました。
パリからニースへは国内線で飛びます。周りのみんなは日本人同士で席が隣り合っていたのですが、
私だけ二つの座席のところで、隣に座ったのはフランス人のビジネスマン。
チャンス!「ここでフランス語を使ってみよう」いつ話しかけようかな?ドキドキ。
そのビジネスマンは何やら仕事の資料を見ている様子。その資料を横目に話題を発見!
よし、と気合を入れて「エクスキューズモワ、ムッシュー。」
そして、語学ガイドブックを片手に話しかけると、英語でいいですよ。」との返事。
あぁ、せっかくのチャンス。ちょっと残念、でもちょっと安心!?
その方は海外の携帯電話会社のビジネスマンで、私は日本の電話を見せながら、どんな機能があるだとか、海外のはどうだとか、話しました。
携帯画面の大きさやカラー表示できる点では日本のものの方が使い勝手がよい感じでした。
難しい話はわからなかったけれど、勇気を出して話してみて楽しかったのを覚えています。
語学習得への近道は「好奇心と勇気の一歩」でしょうか。


さて、話も盛り上がってきたところでニースに到着です
約1時間半の空の旅でした。北海道のような寒さのパリから日中は半袖でもいいくらいの気候のニース。沖縄へ一気に飛んだような暖かさです。天気もパリの曇り空から青空とキラキラ光る地中海へ。本当に光がまぶしくてずっと目を細めながら砂浜(砂というより砂利)を歩きました。
初めての地中海に心踊り、靴を脱ぎいざ海へ!気分も盛り上がります。
しばらくみんなと海で遊ぶとお腹がすいてきたので海から出て海沿いの道路を横断したところにあるお店へ。
そこでマクドナルドを発見。ニースのマックと日本のとでは味の違いがあるのかねぇ?と興味津々でハンバーガーを買ってみました。価格はほぼ同じでした。さて味は?
ハンバーガー片手にまた海へ向かいカモメの鳴き声、大海原の前でガブリ・・・あれ、同じ味だ。
マクドナルドのハンバーガー製法は万国共なのかしら!?
日中は暖かいニースを満喫しました。

夜になると、グッと冷え込んできました。日中の暖かさはどこへ?と思うほど。コートをしっかり着なくては寒くて凍えそうです。これは沖縄とは違います。
いよいよニースのカーニバルへ出発です!
フランス語で*Carnaval de Nice*

ヨーロッパの三大カーニバルの一つであるニースのカーニバルは世界中からたくさんの観光客が訪れます。
ニースに春の訪れを告げるお祭で、歴史はなんと古代ローマ時代にまで遡るそうです。
カーニバルのテーマは毎年社会の風潮にあわせたものが選ばれるとか。
昼と夜、全く違った顔のパレードがありますがここでは夜の「光のパレード」の話を。
昼間と同様、巨大な張子人形が通りを歩き、観光客も地元の人も誰もがお互いに紙テープを投げたり、スプレーを吹きかけたりして大騒ぎ。
パーティ用のとんがり帽子やお面を露店で買って子供のように楽しみます。
ちょっと恥ずかしさ半分、でも一緒に行った仲間と現地の人とスプレーのかけあいです。
見知らぬ人だろうとおかまいなしで楽しむ雰囲気がありました。時が経つのも忘れて盛り上がり!

街中の広場に、このカーニバルの時だけの仮設観覧車がありました。仮設なので、さほど大きくありません。
それでも充分大人も楽しめるくらいの大きさで・・・ちょっと目を惹くものでした。
いや、ちょっとどころではありません。観覧車というと、ゆっくりとまわるものが私たちの知っているものですが、これはなんと速いんです!!
観覧車の一つ一つにはガラス窓はなく吹き抜け。風をきって回る・・回る・・回ること5周くらいでしょうか。
スピードが落ちたと思ったら、次のお客さんが乗り込みます。そしてまたすぐに速く回りはじめます!
何キロの速さかわかりませんが、子供用ジェットコースターくらい?
高所恐怖症の方にはオススメできません。でも・・・面白いので一度経験してみてもいいかもしれません☆


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  新!江戸・東京を旅しよう
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明治時代、文学の足跡をたどる旅2

〜漱石・鴎外・一葉の東京と作品を訪ねて〜

■「喜久井町」と「夏目坂」の名付け親は漱石のお父さん!?
前回申し上げましたが、漱石は慶応3年(1867年)1月5日、牛込馬場下横町で生を受けました。今の地名で申しますと「新宿区喜久井町一番地」なんですが、この喜久井町という地名、夏目家の紋章が菊であったことから、漱石の父直克が名付け親でございました。また、今、私が立っている「夏目坂」を命名したのも又、直克でございました。これらのいきさつは、漱石の随筆『硝子戸の中』で次ぎのように書かれています。 「私の家の定紋が井桁に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使つて、喜久井町としたといふ話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものから教はつたのか、何しろ今でもまだ私の耳に残つてゐる。父は名主がなくなつてから、一時区長といふ役を勤めてゐたので、あるいはそんな自由も利いたかも知れないが、それを誇にした彼の虚栄心を、今になつて考へて見ると、厭な心持は疾くに消え去つて、ただ微笑したくなるだけである」(「硝子戸の中」より) 江戸は元禄時代から続く牛込の名主であった夏目家の当主直克は、新生明治の町名を、夏目家にゆかりあるものにしたかったのでございましょう。まあ、名主というものがいかに力があったのかを示すエピソードでもございます。



■漱石、終焉の地も又「早稲田」
夏目坂から神楽坂方面に、住宅街の込み入った路地を歩くこと5分ほど。私、尾上一途(おのえ かずみち)、弁天町にある「漱石公園」にやってまいりました。殺風景な園内に漱石の胸像と「猫塚」と呼ばれる石塔が寂しく建っています。漱石の死後、遺族は借家であったこの土地と家とを購入して建てかえ、庭に猫・犬・小鳥たちを供養するための石党を建てました。その後夏目邸は昭和20年の東京大空襲で全焼し、今は昔日を偲ぶよすがとしては、漱石公園と猫塚、漱石の胸像のみとなっております。夏目漱石が小説家として世に認められるようになったのは、明治38年(1905年)に「ホトトギス」に連載された「我が輩は猫である」といわれています。あっ、それから、漱石が生まれた次の年が明治維新ですから、漱石の年齢は明治の年代と同じになります。例えば、明治38年は漱石も38歳です。分かり易くていいですよね。そしてこの明治38年、漱石は教員生活に別れを告げ、プロの作家として生きていくことになり、それまで住んでいた本郷から、今、私が立っているこの場所、早稲田の借家に引越し、その後、亡くなるまでここで暮らしています。「三四郎」「それから」「門」「行人」「心」「道草」といった漱石不朽の名作は、この早稲田の家で執筆されたものでございます。そして漱石は、大正5年、遺作となる『明暗』を執筆中に50歳で亡くなりました。胃潰瘍が原因といわれております。漱石は小説以外にも多くの随筆や紀行文を書いていますが、この早稲田界隈を舞台題材としたものがたくさんございます。漱石はこの街、早稲田をこよなく愛していたのでございましょう。



■都の西北・早稲田大学
ところで皆さん、先ほどから「早稲田、早稲田」と早稲田の名前が何度も出てきましたが、ここ早稲田まで来て早稲田大学に触れない訳にはまいりません。次の目的地「雑司ヶ谷霊園(ぞうしがやれいえん)」には、路面電車・都電荒川線で訪れますが、早稲田停留所には、ここ漱石公園からは早稲田大学のキャンパスを通り抜けて行くことにいたします。ということで、私、今、大隈講堂を背に早稲田大学・正門の前に立っています。さあ、ご一緒に早大キャンパスに入ってみましょう。

【つづく】