<今月のヘッドライン>

○イタリア人のように颯爽と・・・
○旅たび珍事件!
○旅行に持って行って重宝!
○また食べたい・・美味いもん
○江戸・東京を旅しよう7


みなさま、お元気でしょうか?
梅雨入りの宣言は出ましたが、好転が続き各地では海開きも始まっているようです。なにか既に夏本番の感さえあります。水不足は困りますがお天気が良いのは嬉しいものです、さて28号は楽しんでいただけるでしょうか・・。

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イタリア人のように颯爽と歩くには

イタリア人の体形は日本人と良く似ています。それほど身長が高いわけではありません。
でも顔の彫は深く、長い歴史の中、色々な民族の血が入り混じっているので、美男美女が多いです。
そしてなんといっても歩く姿が颯爽としてカッコイイ。
もちろん、服のファッションセンスがいいということもありますが、歩き方が違うのです。わかりますか?
イタリア人が颯爽とかっこよく歩いているコツ、それはイタリア人は「腰で歩いている」ということです。
そして胸を張ってまっすぐ前を見て、周りの人に見られていることを意識して歩いているのです。
感覚的に言えば足の付け根から足を出す感覚です。
こうすると足が長く見え、きびきびと歩いているように見えます。
日本人は(すべての人ということではありませんよ)は足で歩きます。
目は下を向き、引きずるように歩いている人が多いですね。
特に最近の若い人は、人に見られていることを意識して緊張して歩く、
これは体型を維持する上でも大切なことなのですね。
イタリア人はファッションに気を使います。
ネッカチーフを携えてダンディーなおじいちゃん。
買い物にもおしゃれをして毛皮を着て出かけるご婦人など。


旅たび珍事件!(旅行での珍事件)

【フランス旅行で・・・】

お天気にも恵まれ、ガイドの素晴らしい案内とさすが世界遺産!と思わせる建築物などで感動。
ただ・・・残念なことに初日(ニースで荷物が3個不明)から最終日(荷物がシャルルドゴール空港に積み残し)まで毎日トラブル続きで(ドライバーの道不案内)、最大の楽しみだったモンサンミッシェルでのオムレツが食べられませんでした!
でも、それに対しての貴社の誠意ある対応に感心しましたので次回もお願いしようかと思っております。
このような旅行も滅多にあることではないので、きっと良い思いでになるでしょう。

50代 A・I様

せっかくのご旅行もアクシデントがあると、がっくりきてしまいます。特に荷物が来ないとやっとホテルに到着しても落ち着くことができません。ご迷惑をおかけし失礼致しました。ご不便の無き様に更に努力を続けたいと存じます。


【手荷物の中身】

昨年十二月、ポーランドから帰国の時。経由地のチューリッヒ空港で雑誌と菓子類の入った紙袋を席に置き、貴重品は手に持ってトイレに。
トイレから戻り、紙袋を持って検査に行ったところ「ビーッ」とブザーが大きく鳴りました。
係官が4〜5人駆けつけ、紙袋の中からビニール袋を取り出しました。
思わず「それ何、私の物じゃない」と叫びました。
パスポートと搭乗券を係官に渡して待つこと20分。
やっと戻ってきた係員に「荷物、下に置いていたのか?」と問われ「トイレに行く前に。」と答えると、
やっと解放されました。「あの荷物は?」の問いに係官はノーコメント。
ギリギリ飛行機に乗り込み、添乗員、ツアーの人達にもご心配をかけました。
やはり手荷物は離してはいけないと大いに反省。
でも、あのビニール袋は何だったのだろう?と今でも気になっています。

60代 T・T様

袋の中身はなんだったのでしょう?ともかく無事ご帰国され良かったです。海外旅行は思っても見ないことが発生します。やはり用心は必要ですね。謎は謎のまま終わりそうです。


旅行に持って行って重宝!

自由時間にスーパーマーケットへ入るのが楽しみの一つ。
地元の人々をよく観察して、よく売れている品を一つ二つ買って帰ります。
旅には電気ポットと箸、スプーン、ナイフをもって行けば珍しいフルーツでも食べることができますヨ!
また、食器用洗剤の消毒効果があるものを小さな器に入れて持って行きます。
これは手を洗うときにも洗濯するときにも、色々な用途に使えて便利です。
そして日本からはお土産にもなる小さなカップ麺を持っていくのも良いですね。           

50代 H・M様

旅の達人は現地の空気を楽しむのが上手ですね、市場やマーケットで見つけた物が一番の思い出になったりしませんか?。


また食べたい・・美味いもん!

トルコでのケバブとナスの肉詰め!美味しかったですが、次回は中濃ソースを持参したいです。     

50代 E・K様


実はトルコ料理は日本の皆様には好評です。ただそれも5日を過ぎると単調で飽きてしまうようで、旅も終盤にかかると不満の声もちらほら、皆様が調味料をお持ちいただくと味の変化も楽しめますね。


お客さま新聞その27を読んで

お客様の声「すてきな添乗員さん」。
ものわかりの悪い客には毅然とした態度も必要、お客様は神様とは限りません。
注意してくださるのはありがたいことです。   

60代 A・F様

このご意見ありがたく承ります、添乗中は皆様の色々なご意見の中、自信を失う事が多いんです、このご意見とても嬉しく拝見致しました。


前回、トルコ旅の話で屋根の上のビンについて触れられていましたが、それについて、ガイドさんから「煙突の横に巣を作られると壊さなければならない。トルコの人達はコウノトリを大切にしているので、巣を作られないようにしているのです。」と聞きました。こんな説もあるようです。 

50代 E・K様

新しい情報ありがとうございます。色々な説があったのですね、又一つ勉強になりました。
でもコウノトリとは夢がありますね。


江戸・東京を旅しよう7

忠臣蔵と元禄の風景〈7〉

■「両国橋」を渡る。

私、尾上一途、今まさに両国橋を渡ろうとしております。
下を流るるは、江戸・東京、心の川--隅田川。
両国橋は、万治3年、西暦で申しますと1660年ですから、赤穂浪士討ち入りの約40年前、
武蔵の国と下総の国とをまたぐ橋として造られ、「大橋」と命名されました。
隅田川では千住大橋に次いで二番目に古い橋でございます。
ところが、この橋を当時の江戸庶民は両国橋と呼び、
結局「大橋」の名前は歴史の中に消えてしまったのでございます。

さて、この橋を造るに際しては、幕府内で意見が真っ二つに割れました。
「橋を作るべし!」とする理由としては「火事に対する防火上の目的」。
これに対し、「橋を架けない」とした理由、それは「江戸城の防衛上の理由」でございました。
つまり、当事は隅田川も江戸城のお堀と考えられていたのですね。
さあ、幕府内は大揺れです。そして最後に、老中酒井忠勝が「川を利用して敵を防ぐのではなく、
人を以って要塞とすべし」として、両国橋は架けられることになったのでございます。
さあ皆様、「両国橋」です!。
現在の両国橋は関東大震災倒壊後、昭和7年に再建されたものです。
両国といえば〝相撲のメッカ!〟、すぐ側に国技館があります。
なもんで、両国橋はバルコニーが土俵を形どったものとなっています。
また、高欄の柱や車道・歩道の分離柵にも行司の軍配がデザインされているなど、
お相撲の小物で装飾された実に楽しい橋でございます。
さあ、橋を渡り終わりました。両国です。
相撲の殿堂--国技館を中心に、周辺はお相撲にちなんだ下駄や浴衣等々お土産物屋さんも目立ちます。勿論、チャンコ鍋屋も多く、相撲場所開催中でなくても充分楽しめる所です。
国技館の隣には有名な江戸東京博物館がありますし、すぐ傍の旧安田庭園も、両国っ子の憩いの場所でございます。また、そのような大きな博物館・庭園でなくても、建物の一室だけを開放したようなこじんまりとした博物館も多くございます。
下町のちょっと人知れない博物館なんかを巡ってみるのもまた一興ではないでしょうか。


■江戸・東京〝心の川〟墨田川

この両国にやって来た目的は、旧吉良邸や回向院(エコウイン)といった忠臣蔵には欠かせない縁の場所を訪ねることですが、両国までやって来て隅田川に触れない訳にはまいりません。
墨田川といえば、皆さん、何といっても花火が有名ですよね。
花火は、〝暴れんぼう将軍〟で有名な、8代将軍--徳川吉宗の時代に、悪病追放のため、祭で花火を打ち上げたのが事の始まりとされています。
吉宗の治世は、1716年からですので、赤穂浪士討ち入りの少し後になります。
ですから、残念ながら浅野内庄頭も、吉良上野介も、夜空に見事に打ちあがる花火を目にすることはなかったのでございます。


■さあ、大石内蔵助の登場です!

さて皆様、お待たせ致しました。
忠臣蔵の主人公--大石内蔵助の登場です。
京都山科に移り住んだ大石内蔵助が、敵のみならず味方までもを欺き、
祇園や島原に繰り出しては酒池肉林におぼれ「仇討ちなど毛頭考えてはおりません。
私しゃ、今後の人生面白可笑しく暮らしていきます」ということを世間に強く印象付ける。
卓越した戦略家--大石内蔵助を代表する有名なエピソードですね。
かしながら、当時内蔵助は親戚に宛てた手紙の中で『ふしだらな人間になってしまいました絶縁して下さい』と語っています。
仇討ち決行の場合、親戚にも難が及ぶのを案じた内蔵助の策とするのが一般的解釈ですが、
逆に、文面通りの解釈もなりたちます。
内蔵助は、山科に居を移した時点では、討ち入りのような過激な策ではなく、穏便なお家再興案に希望を見出していたとする説もございます。
また、洋の東西時代を問わず『英雄色を好む』の伝からいえば、京都での痴態の限りは、
実はけっこうお楽しみになっていたのではないか?
少なくとも、予想される今後の厳しい状況に備え心ゆくまで鋭気を養っていたのではないか?
という解釈もできます。
しかしまあ、いずれにせよ、元禄15年7月18日、浅野家お取り潰しの日以後、内蔵介が討ち入りの決意を持っていたことはほぼ間違いの無いところではないでしょうか?
主君浅野内匠頭の切腹から、7ヶ月、浅野家お取り潰しから3ヶ月。
いよいよ、大石内蔵助が動きだします。
京都山科を出発し、10月26日、今の川崎市に入り10日間、そこに留まり、じっと江戸の様子を探ります。江戸から近からず遠からず、川崎とはまた、絶妙な場所でございます。
この頃にはもう、大石内蔵助の頭の中には討ち入り全体の計画ができており、
決行に向け智謀と神経を集中していたはずです。
「後は、現実の様々な問題との擦りあわせを行い、完璧な作戦を立て、必ずや目的は達成する。絶対に逃しはしない」。温和であった内蔵助の目は、獲物を狙う狼のそれに変貌していたことでしょう。
川崎に入って10日後の11月5日、ついに大石内蔵助が江戸に入ります。
場所は、日本橋石町三丁目の旅館「小山屋」ちなみに、この「小山屋」という旅館は、
今で申せば、「帝国ホテル」のような格式ある超一流の宿屋でございました。
そして、この「小山屋」が、討ち入りまでの赤穂浪士達の作戦本部となる訳でございます。
この日本橋から両国にある吉良邸までは、距離にしてほんの僅か、さあ討ち入りは目前です。