今年も押し迫ってまいりましたがお元気ですか?年賀状の準備、大掃除など慌しい時期ですが、そんな時こそ阪急お客さま新聞をどうぞ!

<今月のヘッドライン>
○イタリアのクリスマス&新年
○お客様の声コーナー (私の穴場のツアー)
○またまたニューフェイス登場
○江戸・東京を旅しよう2


<イタリアのクリスマスと新年>

日本ではクリスマスと新年はまったく別のものですよね。12月25日を越えると、クリスマス色はいっせいに消え、完全にお正月ムードです。ところが、イタリアに限らず海外では「メリークリスマス & ハッピーニューイヤー」ということで、一連のものとして考えているようです。ですからクリスマスが終わっても、装飾は年明けまでそのままのことが多いですね。ヨーロッパのクリスマスは厳かで静かでロマンチックです。イルミネーションや花、窓の装飾で街全体がお化粧をして、それはそれは綺麗です。まだ経験されていない方にはぜひお薦めします。色んなマーケットも立って面白いですよ!クリスマスは子供や恋人たちだけのものではなく、おじいちゃんおばあちゃんも含めた全ての人達のものなのです。


イタリア語でクリスマスをナターレといいますが、大晦日から元旦にかけてのことをカポダンノといいます。さて、イタリアのカポダンノは静かなクリスマスとは違ってにぎやかです。日本人には信じられない恐ろしい風習があるのです。夜中になるとアパートの2階や3階から要らなくなったゴミ、はたまたタンスや電気製品など凄まじいものが窓から降ってくるのです。知らない人が見るとテロか戦争が起こったのではないかと思うでしょうね。花火や爆竹も派手に鳴り響きます。さすがに今ではナポリなどごく一部の地域でしかやってないようですが。


さてイタリアでは大晦日の夜には、男も女も赤い下着を付ける風習があります。いったい何をするのでしょうか・・・?


それでは皆さんからいただいたお声をご紹介します。
いつもお手紙ありがとうございます。


<私のお薦め穴場ツアー> 
「大晦日のローマとヴァチカンの初詣」です。2度目のイタリア旅行の時、ローマで年越しました。大好きなヨーロッパの年越しに年甲斐もなく少々ロマンチックになっていた時、ポポロ広場でイベントがあることを聞き、行ってみました。広場には野外ステージが設けられており、生ライブ真っ盛りでステージも観客も共々ノリノリでした。シャンパンの無料配布に我々も我慢の限界、一緒に騒ぎました。踊りました。そして、シャンパンシャワーです。紅白歌合戦以上の盛り上がりでした。
そして、12時になると灯りが消され、新年のカウントダウンです。「ゼロ」の後の歓声、思わず自然に皆と抱擁してしまいました。遠くからの教会の鐘の音・・・幸せでした。元旦はヴァチカンへ行ったら新春ミサをやっていました。煌々とライトアップされ荘厳さに身の毛がよだちました。100名以上のコーラス、パイプオルガンの演奏の中、僧侶の祈りの声、日本の初詣とは違っていてクリスチャンでもない小生も有り難さに涙を禁じえませんでした。・・・・幸せでした。以来、3年続きでローマの年越しツアーに参加しました。皆さんも是非経験してみてください。泣けますヨ!!(A・U様)


→1年に一度の大騒ぎ、ちょっと危険な部分もあるのですが、イタリア人の本領発揮というところですね。


<楽しい思い出を抱えて・・・>
お客様新聞毎月「なめるよう」にして読んでいます。去る11月5日、親友が天国にかけのぼりました。思えばトラピックスの旅行はオランダ・ベルギーを初回にして今年5月にシシリー島まで10回も一緒、しかも同室。9月にシルク・ロードを話したときは「体調が悪い」と断念されました。まさかその時余命2ヶ月だったとは・・・。いつも帰りの飛行機の中で「来年はどこにする?」と嬉しい相談をしました。亡くなる前に「とても楽しかった。沢山の思い出がある」と言っていたそうです。来年は写真でシルク・ロードにつれてゆきますよ。トラピックスのおかげで彩りある人生だったのです。(A・F様)


→人は皆いずれ天国に召されます。そこにはお金も宝石も持っていくことはできませんが、お友達は抱えきれないほどの思い出を持って旅出たれたのだと思います。これからも心の中でずっと一緒ですね。


<ヴェルサイユ宮殿は3度目>
久し振りに便りをします。前回は、孫と一緒にヨーロッパへ10日間の旅でしたが、次回はフランス南部を中心に御社のツアーに参加する予定です。次回は孫(小学4年)が選んだコースでモンサンミッシェルが気に入っているようです。私も同じですが、数多くの世界遺産を見学できることがコース選定の理由です。パリでのヴェルサイユ宮殿は3度目となりますが、毎回新たな発見があり、今度は何が眼に映るか?私は油絵を少々しており、名画の現場に立つことが出来ることを楽しみにしています。(コースNo.E533MM(or MT)−22で来年3月21日出発を予定しております。(K・O様)


→「ホンモノ」をお子さんに見せることは何よりの「教育」だと思います。何を感じ、何を目に焼き付けるか?ホンモノは感受性の豊かにしてくれます。


<団体行動のルール・責任と自覚>
毎回楽しく読ませていただいています。旅は海外・国内を問わず生活をリフレッシュしてくれるものです。私共も夫の定年を機に阪急さんを中心にお世話になっています。他社に比べ、値段や内容の充実と添乗の方の態度、応対も適切で素晴らしいものがあります。先日、老人の昼食注文ミスに添乗員さんが自分用の弁当をあげる等、心温まる思いがする事など多々あります。又、一方一緒に旅する客の態度が旅を楽しいものにも不愉快なものにもするのですよね。是非責任と自覚をもって協力し、楽しさを倍増したいものです。これまでに運悪く出会えなかった青の洞窟、フィレンツェの美術館、飛行機の都合でいけなかった石林、テロで中止になったバリ島、バスポートを取られたうっかり小母さんのためにろくに見ることの出来なかったマルセイユ等、又何時の日かと夢に見ている私たちです。(M・M様)


→団体行動のルールを守って楽しく安全に旅行をしたいですね。同行の方々とのふれあいもツアーの楽しみのひとつです。「青の洞窟」ぜひ再挑戦してください。言葉では表現できないほどの感動です。


<乗り継ぎ便利用の効用>
穴場と申しましょうか。急ぐ旅でもないので直行便よりも乗り継ぎのツアーを利用しています。例えばエジプトの時はエミレーツ機でドバイに立寄りましたし、ロシアの時もウズベキスタン機でゴビ砂漠上空を通過し、これだけでも見ごたえあり、感激しました。各国の空港に着くだけでもその国の空気を感じられ楽しくなりますし、疲れません。(S・T様)


→直行便の方が楽で時間のロスも少ないからと乗り継ぎ便を敬遠されがちですが、逆の見方をすればTさんのようにメリットにもなります。「一粒で二度美味しい」ですね。


<私のおすすめツアーは"麗しの東欧紀行10日間"です>
2006年4月に参加したのですが、ドイツ、チェコ、オーストリア、ハンガリーを効率よく周り、それぞれの国の世界遺産を始め、中世の街並み、歴史深い建築物の観光とまさに盛りだくさんのツアーです。特にブダペストのドナウ川イルミネーション・クルーズはライトアップされたくさり橋の美しさがいつまでも深く心に残っております。見どころ満載のこのツアーは決して期待を裏切らないと思いますよ。中世の落ち着いた静かな趣を持つ4ヵ国を巡るこのツアーを是非おすすめしたいと思います。又よき旅を体験するために欠かせないのが添乗員さんですが、阪急さんには随分参加しておりますが、添乗員さんのお人柄の良さ、心配りは他社と比べてもピカ1だと思いますよ。(K・O様)


→まるで阪急交通社の社員のようなセールストーク(笑)ありがとうございます。「麗しの東欧紀行10日間」は人気のロングセラーコースです。西欧にはない往時の欧州の素朴さ、美しさが残っています。未体験の方はぜひどうぞ!


<飛行機内や乗り継ぎ空港での過ごし方教えて!>
いつも楽しく読ませていただいています。仕事のかたわら旅を愛する皆さんのために一人一人の気持ちを大切に大事に思って真摯な執筆されている編集されている方々に敬意を表します。これぞ正しく阪急交通社の理念であり、末永く継続されることを願ってやみません。ところで、私事の提案ですが、いつかの機会に長時間飛行機内の出来事。或いは乗り継ぎ空港での出来事。又、集合時間に遅れて迷子になったことも含めて皆さんの経験談を伺いたいと思っております。私は昨年、兄弟姉妹4家族で数度目のヨーロッパ旅行でしたが、来年も今から4月以降のパンフレットを待ちわびているところです。(I・N様)


→なるほど!

みなさん、初めまして!村山芽求美と申します。
阪急で働き始めて1年を越えたところです。日々、皆さまが寄せて下さるお便りをとても楽しみに、また励みに、時には勉強になるなぁ〜と思いながら仕事をしています!いつもありがとうございます!


さて、旅の話に移りますが、私の大きな旅との出会いは高校生の頃でした。それまで旅といえば、もっぱら国内。埼玉県出身なので、家族と関東圏内の車での日帰り旅行がほとんどで、列車での旅は年に1回、福島の祖母の家へ行くことでした。それも毎回列車ではなかったので、列車に乗ることは貴重でした。上野駅から常磐線(今は姿を消した国鉄色の「特急ひたち」)に乗り(浜通りの家なんです)、駅弁を食べる・・・。子供心にすごく楽しいひとときでした。お茶なんて今のようなペットボトルではなく、ポリ容器でしたよね、取手のついた。幼すぎて残念ながら映像としてうっすらとしか残っていないのですが、その「駅弁・お茶・おてふき」セットが好きでした。家では見られないものだったからでしょう。子供の頃の大イベントでした。そういえば、祖母の家に行くと、そこから車で山をいくつも越えて磐梯山周辺の温泉や仙台、松島などへよく連れて行ってもらっていました。家族で過ごしたいい思い出です。もちろん、それも旅のうちに入るのですが、やっぱり「これぞ旅!」と実感したのは、初めて飛行機に乗って海外へ行った時です。


私は中学生くらいの頃から、世界史の授業中に教科書に載っている絵や写真をよく見ていました。先生の話そっちのけで(笑)。「いつか海外に行きたいな〜、でもうちはお金持ちじゃないからだめかぁ(笑)。」なんて思いながら。でも、写真の建築物や数々の遺産を実際に自分の目で見たい!!という気持ちを抑えることはできませんでした。その思いが叶ったのは、高校の修学旅行でした。行き先はパリ・ロンドン!初飛行機・初海外!!夢のようでした。ヴェルサイユ宮殿なんて、まるでタイムスリップしたような感覚になり、感動だらけの一週間の旅でした。しかし、修学旅行ではほとんどがバスからの車窓だったので、少しでも外を歩く機会があればその地の人に拙いフランス語や英語で話しかけずにはいられませんでした。「もっと言葉が通じたらいいのに!思いや考えを伝え合えたらいいのに」と、もっと海外を知りたくなしました。「よし、大学に入ったら留学しよう」と決めて帰ってきました。旅だけでは気がおさまらなくなっていたのです。


そして、短大時代に行ってきました!フランス語学留学。短大は2年で卒業しなければならないので、長期留学制度はなく、留学は短期わずか1ヶ月でしたが、その1ヶ月はさらに私の気持ちを世界へ向けるものとなりました。「今度は仕事で海外へ行こう」そう思うようになりました。旅行会社に入ったのも、その理由が1つです。今は東京のビルの一室での仕事ですが、すごく楽しいです。今は、"海外でも通用するように"と力をつけているところです。
さて、そんなフランスの経験と歴史上の人物に興味があること、また私自身のことを交えながらお話をしていきたいと思います。まずは、やはりフランスの人物から・・・。


ナポレオンも人の子なのです
かの有名な、フランスの英雄と言われているナポレオン。名前を聞くと思い浮かぶのは、馬にまたがり、誇らしげに手をあげている肖像画ではないでしょうか。どんどん力を発揮して、フランス軍を率いたナポレオン。英雄伝は数多く残されています。華々しい活躍の印象の多いナポレオン。実はそんな彼に幼児性が多々あったというのです。


彼は肖像画は、勿論、ナポレオン自身がモデルでした。しかし、彼は描かれている間中落ち着かず、すぐに立ち上がったり、うろうろしはじめたりします。じっとしていることが苦手なのです。画家は困惑してしまいました。描く対象がそんなに動いてしまってはなかなか絵が進みません。そこで、妻のジョセフィーヌはナポレオンを自分の膝に座らせます。すると彼は落ち着き、写生されるままになったといいます。また、夜は、ジョセフィーヌに枕元で本を読んでもらっていました。まるで、お母さんと小さな子供のようですね。


ナポレオンは妻であるジョセフィーヌをとても愛していました。軍地でも彼女の肖像画を兵士に見せてまわるほど。それに、離れた地から毎日手紙を送っていたそうです。その内容も特に用事の内容ではなく、想いを綴ったもの。4ヶ月でなんと123通も送ったそうです!これにはびっくりですね。ちょっと恥ずかしいやら嬉しいやら、私自身、学生時代に恋人から想いを綴ったメール(原稿用紙で約5枚分)を毎日もらっていたことがあります。書いてある想いは毎日変わるわけではありません。けれど、いろいろな言葉や表現を使って想いを綴っているのです。非常に感受性と表現力のある人だと思いました。ナポレオンに関する書籍を読むと、ナポレオンもそんな人だったのだろうと感じます。


さて、話はナポレオンに戻りますが、まだまだ彼の幼児性な部分はみられます。あるとき、侍女が高い本棚の掃除をしようと、キャスター付の梯子に上っていました。そこにナポレオンは近づき、梯子を揺らします。侍女がビックリして悲鳴をあげると喜ぶ・・・。またあるときは、侍女や秘書、兵士などの耳をひっぱる癖もありました。防寒帽をかぶって耳が隠れている場合は頬をつねったり。それも、彼にとっては挨拶代わりだったようですが、力加減ができず、ひっぱられる側にしてみたらそれはそれは痛いものだったといいます。ナポレオンはとてもいたずら好きだったのですね。そんな幼児性を多く持つ彼ですが、人並み以上の集中力を持っていました。子供も集中力をとても持っていますが、それと関係がありそうです。その話はまたの機会にいたしましょう。


それでは、 今回も皆さんを江戸の世界へ誘いましょう。連載も2回目となり、ますます筆が走ってまいりました。


江戸・東京を旅しよう・2


江戸情緒を色濃く残す上野界隈
みなさん、こんにちは。尾上一途(おのえ かずみち)です。さて、『日本橋』から中央通りを上野方向に約2キロ、私、尾上一途、徒歩にて上野広小路にやってまいりました。

今から300年前、浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)が吉良上野介(きら こうずけのすけ)を江戸城松の廊下にて斬りつけた元禄の頃から、この上野は有名な繁華街でございました。今、歩いておりますのこの辺り、今も広小路(ひろこうじ)と呼ばれておりますが、江戸時代初期からの歴史ある通りです。「よしず」あるいは「むしろ」で覆った質素な仮設住宅が立ち並び、ノボリが風にはためき、客を呼びこむ声や、猿回しの太鼓の音が響き、娯楽の少ない庶民にとって、今で申せば、ちょうどディズニーランドのような場所でございました。右手に有名な「松坂屋」が建っています。元禄の時代には、伊藤松坂屋という名前で有名な豪商でございました。余談ですが、元禄から時代が進んで江戸は幕末期、この伊藤松坂屋に一人の美少年が丁稚奉公にやってまいりました。後の新選組副長・土方歳三、一一歳の時であります。しかし土方少年は、番頭と大喧嘩の末、直ぐに首になってしまいました。後年の土方の壮絶な人生を考えますと、とても丁稚など勤まる訳がありませんよね。松坂屋の向こう側一帯が、東京都内最大の市場街--『アメヤ横丁』通称アメ横!。江戸庶民の活気を今に伝えています。左手は?というと、たくさんの昇りが見えます。江戸庶民文化を今に伝える『鈴本演芸場』。落語・漫談といった大衆演芸が、人の心を江戸時代に誘っています。


昔も今も? 不倫の恋は命懸け?
さて、歩みを早めましょう。中央通りを上野の森の方向に更に真っ直ぐ進んで行きますと、池が現れました。『不忍池(しのばずのいけ)』です。私、ちょっと池のほとりを歩いてみたくなり、中央通りを左折して不忍通りに入ってみることにしました。すると『不忍池』の中央に小島が見えます。『弁天島』です。『弁天島』は、江戸時代初期に作られた人工の小島で、当時の浮世絵を見てみますと、『出会い茶屋』と呼ばれる今で言うラブホテルが数件立ち並んでいるのが見て取れます。『出会い茶屋』は、平屋で数寄屋造りの小粋な建物、別名『蓮の茶屋(はすのちゃや)』とも呼ばれておりました。ところで皆さん、当事の不義密通、今で言う不倫ですね、この不義密通は、現代の不倫と異なり命懸けの行為だったのです。まぁ、いまの世で命懸けの不倫をされている方からは異議が出るやも知れませんが、当時と今とでは命懸けのレベルが違います。不義密通は、露見すれば、密通した二人を重ねて、上から四つ切りに刻んでもお構いなしとされたほどの重罪でありました。当時の川柳にこんなものがあります。
〜出会い茶屋 あぶない首が 二つ来る〜  平成の世に感謝したいと思います。


妙に艶っぽい湯島界隈
さて、『不忍池』を見ながら、不忍通りを歩いてまいりましたが、池の角を左折して湯島の街を覗いてみることにしました。湯島という街は、何かこう、しっとりとした艶やかな雰囲気に包まれた所です。元禄時代の湯島には、『陰間茶屋(かげまちゃや)』という特殊な業種の建物が立ち並んでおりました。陰間(かげま)というのは何だかお分かりになりますか?
今で言うところの"おかま"--ニューハーフのことでございます。「男色は武士のたしなみ」とする風習は、戦国時代から広く行われてきたもので、織田信長などが有名ですが、決していやらしいことでも変態的な行為でもありませんでした。またまた余談ですが、当時のカゲマには厳しい条件がついておりました。カゲマの本職は芝居小屋の役者の卵ですが、下は十二・三歳から上は十七・八歳の美少年に限られており、その年齢以外はカゲマとは認められないしきたりがあったそうでございます。


ここでご質問!「大石内蔵助と銭形平次はどちらが年上でしょうか?」
余談・前置きが長くなりました。いよいよ忠臣蔵の始まりです。元禄14年(西暦で言えば1701年)3月14日昼過ぎのことです。当代きっての外科医であり幕府ご用達のお偉いお医者様、栗崎道有(くりさき どうゆう)は、神田明神下で患者を往診中でありました。私、尾上一途もまた、上野〜湯島から昌平橋通りを大手町方面に15分ほど歩き、神田明神下にやってまいりました。「江戸っ子だってねぇ」「神田の生まれよぉー」という掛け合い言葉で知られるように、神田は江戸下町の王様のような街で、ここに暮らす住人には「俺たちこそ江戸っ子」といった独特のプライドがありました。けれども、神田明神下と聞いて私が真っ先に思い浮かぶのは、なんと言っても銭形平次!。もちろん銭形平次は架空の人物です。あら、ひょっとして、実在の人物と思っている方がいらっしゃったのでしたら夢を壊してしまってすいません。野村胡堂の原作「銭形平次捕物控」によりますと、平次が活躍したのは、3代家光・4代家綱の時代ですので1650年前後と推察されますが、後半の巻になりますと突如お話が150年ほど進み、文政年間(1800年代の前半)になっています。時代考証がいいかげん? 大丈夫です。そんなこと全然どうってことはありません。銭形平次ほどの英雄ならば、細かな時代背景なんて問答無用!それこそ時空を超え、この神田明神下で、普段こそ、美人の誉れ高い恋女房のお静さんと仲良くイチャイチャ暮らしちゃいるが、イザ事件発生!ともなれば、ガラッパチこと八五郎を従え、ライバルー三ノ輪の万七をはるかに凌ぐ推理力、洞察力、判断力、戦闘力をいかんなく発揮し、〆はもちろん得意必殺の「寛永通宝四文銭」(今の貨幣価値で50円くらい)を一閃!!どんな悪党をもとっちめた上で捕捉する、痛快無比、江戸時代随一の超スーパーなヒーローに、こまごました取り決めは無用なのです。


*正解→銭形平は大石内蔵助より50歳ほど年上、且つ、100歳ほど年下でした。