高知/高知城♪土佐藩の二十四万石のシンボル
阪急交通社高知支店スタッフからの南国土佐情報です。
紺碧の太平洋、清流の四万十川など高知県は大自然の魅力いっぱい。
また、鰹のたたき、天然鰻や鮎、柚子、日本酒など海の幸、川の幸、山の幸など
美味しい食べ物やお酒も高知の自慢のひとつ。
気候よし、風土よし、人情よし、食べ物よし、ぜひ高知県へお越しください。
現地在住者からの身近な高知観光情報をご案内します。
土佐藩二十四万石の象徴である山内一豊が築いた南海の名城『高知城』をご紹介。

高知城は大高坂山と呼ばれる小高い丘山内一豊により築かれた平山城です。
一豊が城を築く以前には、南北朝時代には南朝方の大高坂松王丸が居城とし
さらに戦国時代には長宗我部元親も居城していた場所です。
しかしながら、大高坂山は鏡川・江の口川はじめ多くの河川が流れ込む中州にあり
水はけが悪い低湿地帯であったことから度々洪水に見舞われ、長宗我部元親はたった
3年で城を浦戸に移転したのです。その後、関が原の戦いで功労のあった山内一豊が
掛川から転入し、慶長6年(1601年)に浦戸から再びこの大高坂山に城を移したのです。
一豊は本丸造成工事とともに城下町整備のための河川の治水工事も同時に行いました。
河川の流れを変える治水工事は難航を極めたのですが、着工から2年後の慶長8年に本丸など
主要部分が完成し山内一豊が入城。その時、元の名称だった大高坂山を改め河中山としました。
さらに、二代目城主・山内忠義の時代になっても工事は続き、慶長16年に三の丸が竣工し
築城開始以来10年の年月を費やして城郭の全てが完成したのでした。
忠義に時代、洪水が相次ぎ“河中”の名前を忌み嫌い、竹林寺の僧・空鏡によって高智山城と
改名しました。後に、この高智山城が高知城になったのです。
八代目・山内豊敷の時代、享保12年(1727年)におこった大火災のため
追手門を残し城郭のほとんど全てをを焼失。翌年から早速再建の工事にとりかかり
宝暦3年(1753年)に工事が完了。現在残る天守はこの時に再建されたものです。
天守は外観は四層か五層に見えますが、三重六階のつ造りで、最上層には望楼風高欄
がついています。天守には御殿が付いており「懐徳館」と呼ばれています。
天守のある本丸には、他に正殿、東多聞、廊下門、詰門、西多聞、黒鉄門などの建物が
今なお江戸時代そのままの姿をとどめています。
天守のある本丸へは重厚な石垣のある追手門から登城します。急峻な階段を登ること
約10~15分で到着。エレベーターやエスカレータなどはなく、移動手段は徒歩のみ。
しかし苦労して登った天守閣からの眺望はとても素晴らしく、高知市内を一望のもとに
見渡すことができます。
ご存じない方も多いですが、高知城は国の重要文化財にしていされているのですよ。

高知城一帯は高知公園になっています。また、敷地内には県立文学館、県立図書館もあり
市民の憩いの場として愛されています。
高知公園にあるのが山内一豊の妻と駿馬の像、山内一豊像、板垣退助像と3つの銅像です。
いずれも土佐にゆかりの深い人物です。
山内一豊の妻、千代は女ながら2006年に司馬遼太郎原作の小説「功名が辻」を映像化した
NHK大河ドラマの主役となり、良妻賢母(内助の功)の鑑として、広く知られることになりました。
主演の千代は仲間由紀恵、一豊は上川隆也が演じ、かなりの視聴率でも話題でしたね。
銅像は蓄えたお金で一豊の出世のために駿馬を購入したのをモデルに作られています。
山内一豊の銅像は、馬に乗り長い槍を持ち威風堂々としている姿です。
板垣退助は“板垣死すとも自由は死せず”のフレーズで有名な明治時代の自由民権運動の指導者。
自由民権運動の発祥の地と称される高知に相応しい銅像です。
初代の銅像は大正13年に建立されたのですが戦時中に供出され消滅。現在の銅像は戦後に
再建された2代目で、像の題字は再建当時の内閣総理大臣である吉田茂の揮毫です。






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