スイス的「備え術」

スイスは1815年以降いわゆる中立国だが、これはどこの国にも味方しない・連帯しないということだけであって、決して「スイスは戦争をしない」ということではない。自分からアクティブに戦争を仕掛けることはもはやありえないが、何国であろうとも攻めて来たら全力で撃退しますよということだ。

SW_20130501_01.jpg(スイス・イタリアの国境で警備にあたるスイス軍の国境警備兵(右側)、1914年11月1日発行のThurgauer Zeitung日曜版より)

世界でも有数の軍事力を有するスイスには兵役義務があり、基本的に一定年齢のスイス人男子は全員が戦闘要員。兵役期間中のスイス人宅にはライフルがあり、これは居住地近くの射撃場で定期的に射撃訓練を行う義務があるからだが、同時に有事の際には即戦闘態勢に入れるということでもある(兵役を終えた人がその後も銃器を所持し続けることもかなり普通)。職業軍人も多く、街中を戦車などの軍事車両が走っていることも軍服を着て大型のライフルを抱えたグループが電車やバスに乗っていることも全く珍しくない。

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この「有事への備え」は民間レベルにも浸透していて、水害や核攻撃(!)の危険を知らせる各種サイレンの試験が年に1回―毎年2月の第一水曜日午後―実施されている(ちなみにこのサイレンが訓練時以外に鳴った時に一般人がとるべき行動は、どこか特定の場所に逃げるのではなく「ラジオを聞く」が正しい)。学校など公共の建物や大型のマンション・アパート住宅にぶ厚いコンクリート造りの核シェルターがあるのはお馴染みだ。

備えというのはもちろん軍事的な有事への対策のみではない。スイス政府が考えるところの現存する対有事策というのはそもそもは2回の大戦の経験を教訓にしたものだが、今日では主に周辺国や物品の輸入元で何らかの事態(天災による作物の不作や伝染病の発生、政治情勢悪化等によるエネルギーや物資輸入の停止・遅滞など)が発生した際に一定期間自力で国勢を維持するという方向で想定されている。スイスには政府が定めるところのプフリヒトラーガーPflichtlager(義務貯蔵)というものがあり、対象貯蔵品には主に「国の機能や国民の生活を維持するために必要な物品・および国内での自給調達が著しく困難なもの」が挙げられている。以前はこのプフリヒトラーガーは1~数年分に相当する貯蔵量が義務づけられていたが、現在では平均3~4ヶ月分に削減されている。これらの物品は経済供給省Bundesamt für Wirtschaftliche Landesversorgung(略称BWL)の統率の下で食料品および家畜飼料・肥料・燃料・医療品の4科目に分けられ、それぞれの科目を管轄する組織団体―食料品/家畜飼料のréservesuisse・肥料のAgricura・燃料のCarbura・医療品のHelvecura―に全国各地の一般個人企業が参加することで指定の量を常に供給出来るよう準備しておく仕組みなので、すべての物品が一ヶ所の貯蔵基地に集められている訳ではないのがポイント。対象品目には米・小麦・コーヒー・砂糖・食用油・イースト菌原料・肥料・航空機用燃料・ガソリン・核燃料・暖房用の地ガス・抗生物質・インシュリン・輸血袋・医療用手袋など様々なものがある。これらの義務貯蔵品には大臣が定める「オブリガトーリッシェ・プフリヒトラーガーハルトゥングObligatorische Pflichtlagerhaltung(必須義務貯蔵)」品目とBWLがその需要や必要性を認めて個別に定める「フライウィリゲ・プフリヒトラーガーハルトゥングFreiwillige Pflichtlagerhaltung(自主義務貯蔵)」品目があるのだが、必須義務品目の対象品を輸入している企業はBWLと契約を締結することが義務づけられており、その契約の下で彼ら一般企業がガランティーフォンGarantiefondsという特別な元本保証のファンドに出資することでこの義務貯蔵システムの運営・維持にかかるコストをまかなう仕組みになっている(企業側にはその見返りとして低金利で融資が受けられたりするなどの特典がある)。ファンドへの出資金は企業がこれらの輸入品を一般市場で通常販売する際の小売価格に上乗せされているので、結果として最終的な消費者/購入者である私たちがこのシステム保持のための費用をいわば「保険料」として日々支払っているということになる。「上乗せ金額」は自動車用のガソリンだと1リットル当たり約0.5円弱。ガソリンはもちろんのこと、必須義務貯蔵品の対象であるコーヒーや米も基本的にすべてが輸入品なので、身の回りにある生活必需品の大部分にこの保険料が加算されているということになる。ちなみにこの上乗せ金額を合計した消費者1人あたりの年間平均負担額は15.4フラン(約1700円)という統計(BWLの2012年3月発表の調査資料より)があり、約750万人というスイスの総人口で単純計算するとその総額は年間およそ127億円。これは私たち消費者にとってみれば有事にならなければ「掛け捨て」になるが、万一の場合に備えての保険料としては良心的な金額だと言える。もちろんこれだけの備えがあっても国内の道路など輸送経路が遮断された場合には供給が困難になるという最大の問題は残るのだけれど。

姑が幼かった頃にはまだこの政府先導による義務貯蔵システムはなく、代わりに各家庭で非常事態に備えて規定の食料品を備蓄するのが義務になっていたそうで、お父さんが「ちゃんと備蓄義務の食料品が必要分量揃っているか」ということを折に触れてお母さんに確認していた記憶があるとのこと。現在では各家庭での食料品備蓄は義務ではないが、BWLのホームページには異常降雪や山崩れなどの事態で輸送路が一時的に遮断された際に救援が来るまで1週間程度自力で持ちこたえられるだけの備えをしておくという方向性の「1週間分の推奨備蓄・貯蔵品リスト」(リストへのリンクは本文下部参照)というものが掲載されている。最重要品目として「1人当たり飲料水9リットル」が挙げられており、小売店の店頭では1.5リットル入りのミネラルウォーターが6本1セットで販売されているのが普通なので、要はこれを家族の人数分セット常に用意しておきなさいということだ。缶詰・瓶詰やインスタント食品、冷蔵不要な乾燥肉・ソーセージ・クラッカー・ドライフルーツなども挙げられているが、非常時のために特別な品物を準備するというよりは普段の生活で使うもので同時に備えにもなるものを常に意識して用意しておくことが推奨されている。スイスと日本は地質・地学的にその「脅威」の対象が異なるので自ずと備えの方法や方向性が異なる(例えばスイスには日本に見られる持ち出すための「非常袋」的な備えの習慣はない)のだが、この「回避できない危機の発生を想定して、それにどうにか対応すべく日頃から準備をしておく」ことを前提とする姿勢はスイス人の特徴的な「物事を常に悲観的視点から見て考える心配性な気質」を形成する材料のひとつと言える。

記事執筆参考資料・出典およびウェブリンク

プフリヒトラーガーについての総合情報(BWLウェブサイト内、独語)

www.bwl.admin.ch/themen/00527/index.html?lang=de

プフリヒトラーガーの仕組みについての図解入り概略説明パンフレット(上記ウェブサイト内、独語・PDF)

www.bwl.admin.ch/themen/00527/index.html?lang=de&download=NHzLpZeg7t,lnp6I0NTU042l2Z6ln1acy4Zn4Z2qZpnO2Yuq2Z6gpJCDdXx4gmym162epYbg2c_JjKbNoKSn6A--

プフリヒトラーガーの仕組みについての詳細説明(上記ウェブサイト内、独語・PDF)

www.bwl.admin.ch/themen/00527/index.html?lang=de&download=NHzLpZeg7t,lnp6I0NTU042l2Z6ln1acy4Zn4Z2qZpnO2Yuq2Z6gpJCDdXx4gWym162epYbg2c_JjKbNoKSn6A--

家庭における非常備蓄(BWLウェブサイト内、独語)

www.bwl.admin.ch/themen/00509/index.html?lang=de

リストはページ右側のDOWNLOAD下にあるMerkblatt «Notvorrat»から(独語・PDF)

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Asami AMMANN-HONDA

スイス東部トゥールガウ州の農村在住。元書店員、現在は兼業主婦(介護補助士&日本語教師&日独英通訳)。趣味はスポーツ・園芸・料理、専門は音響映像技術。

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