■神田明神下から江戸城へ向かう
さて、繰り返しになりますが、元禄14年(西暦で言えば1701年)3月14日昼過ぎ。
当節No.1の外科医―栗崎道有(くりさき どうゆう)、神田明神下で往診中、江戸城から火急の呼び出しを受けました。何か大変なことがおこった様子です。栗崎は急いで江戸城に向かいました。
私、尾上一途(オノエ カズミチ)もまた、「神田明神」から江戸城に向かっています。
「神田明神」から江戸城に行くには、本郷通りを、JR御茶ノ水駅を横切り、あとはまっすぐ大手町に向かい、永代通りを右折してパレスホテルを左手に見ながら江戸城・大手門を目指すのが最もシンプルでロスのない行程ですが、今回は本郷通りを小川町の交差点で右折し、靖国通りから江戸城・北詰橋(キタハネバシ)門を目指すことにします。
■「湯島聖堂」と「昌平坂学問所」
「神田明神」からJR御茶ノ水駅までの間、ふと見ると、本郷通りの左手に木々に覆われた小さな森のような一帯があります。わが国学問の聖地「湯島聖堂」です。「湯島聖堂」と忠臣蔵とは特に関係はありませんが、敢えて探せば「湯島聖堂」を建てたのが、忠臣蔵の時の将軍―5代綱吉ということくらいでしょうか。
元禄3年(1690年)孔子を祭る廟として建てられた「湯島聖堂」は、100年後の寛政9年(1797年)に「昌平坂学問所」として江戸幕府に仕える武家の師弟が勉強する場として活用され、大政奉還の後も、筑波大学やお茶ノ水女子大学が一時この地に置かれるなど、教育・学問の中枢というマインドは今に受け継がれています。

↑湯島聖堂案内図

■徳川綱吉、最悪の将軍ではあるけれど。
さて、犬公方(いねくぼう)こと、5代将軍徳川綱吉は、良くも悪くも歴史に永遠に名を残すでしょう。
一つは、「忠臣蔵」が不滅の日本史+物語であるため(登場人物として将軍綱吉は外せません)。もう一つの理由は、人類史上例を見ない悪法「生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい)」を発令した将軍であったことです。「生類憐れみの例」は1687年の発令ですから、刃傷松の廊下の4年前ですね。「跡取りの子供が出来ないので動物を可愛がれば出来る」という恐ろしいほどに短絡的な発想から出てきたものらしいのですが、その取り締りが余りに厳しく、庶民は大いに苦しんだそうです。世界中見渡しても、石器時代以降、国家が人間より犬(やその他の動物)を重視した法律を発令した話なんて聞いたことがありませんよね。
ただし…!
綱吉治世の元禄時代は、確かに悪政の時代ではありましたが、江戸時代、いや、日本の歴史上稀に見る文化花開く時期でもありました。近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉、尾形光琳、菱川師宣、等等、各ジャンルで歴史に名を刻むアーチストや文化人が輩出されています。「悪政や圧政の時代には芸術が栄える」ことは、海外においてもしばし見受けられる現象で、まあ、人間や人間社会はそういったものであり、歴史の必然であり皮肉でもあるのでしょうが…







