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■浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)、殿中にて刃傷!

お話を忠臣蔵に戻しましょう。神田明神下から急ぎ江戸城に呼び出された栗崎道有(くりさき どうゆう)は、江戸城に着くや蘇鉄の間(そてつのま)におもむきます。
蘇鉄の間というのは、松の廊下の真向かい、奥にある細長い部屋です。
そしてそこにはなんと、吉良上野介(きら こうずけのすけ)が横たわっているではありませんか! 
吉良上野介は、つい先ほど浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)に額を切られた衝撃で失神していたのです。

ここで栗崎道有、驚きはしましたが流石に当代随一の外科のお医者様、冷静に医者として目の前の患者、吉良上野介を診断します。
そして即座に「命に別状はない」と判断しました。その時、栗崎道有が吉良上野介に施した治療の記録が残っています。
現代語訳してみますと『額に10センチ程の傷があり6針縫った。
背中の傷は大したことは無かったが3針縫った』といった内容です。

治療を終え、一息付いた吉良上野介に栗崎が塩をふりかけた湯付けの飯を差し出すと、上野介はむさぼるように食べたそうです。
刃傷沙汰のその日、早朝6時に江戸城に登庁した吉良上野介、この湯付けがこの日初めての食事でした。

松の廊下跡辺り
*松の廊下跡辺り

2006年2月 2日
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■江戸城あれこれ③ <見所がいっぱい!>

江戸城」こと「皇居東御苑」は、見所いっぱいでロケーションも江戸・東京のまさにど真ん中、魅力満載の巨大空間です。

櫓(やぐら)・「百人番所」に「同心番所」といった歴史的建築物、名高い「天神濠」や「白鳥濠」、雑木林を抜けると都会のオアシス「二の丸庭園」で心を癒し、「休憩所」では「絶対にここでしか手に入らない!」オリジナルグッズも楽しみです。さらには、季節毎に咲く花々や木々の種類も豊富で植物観察だけで一日過ごす人もいるくらいです。

私、ここに来ていつも感じるのが

「来ている人が意外と少ない」

「半分は外国人ではないだろうか?」ということです。

こんなに交通アクセスがよく素晴らしい場所、江戸・東京の原点ともいうべき「江戸城―皇居東御苑」に是非一度いらっしゃってください。



百人番所   同心番所
    *百人番所                      *同心番所



雑木林   ninomaru.jpg
    *二の丸を囲む丸雑木林              *二の丸庭園



休憩所   休憩所1

*本丸休憩所「ここでしか手に入らない超オリジナルグッズが嬉しい>」

次回もお楽しみに

2006年1月24日
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■江戸城あれこれ② <大奥>

尾上一途(オノエ カズミチ)、今、江戸城天守閣跡の上にいます。
真正面に見える鮮やかな芝生の一帯がかの有名な<日本のハーレム>大奥跡です。

天守閣から見る大奥   大奥跡
    *大奥跡を天守閣跡の上から見る      *大奥跡

大奥は、総面積が6300坪、「御台所(みだいどころ)」と呼ばれる将軍の正室を頂点として下女に至るまで、女性のみで組織された大組織でした。特殊に隔離された一種の密室空間でもある「大奥」は、人間関係が密で且つミステリアスな上に華麗とくれば、様々なドラマが生まれるのも当然で、TV、映画、小説等で数多く取り上げられてきました。

ところでみなさん、大奥には一体何人くらいの女性が暮らしていたと想像されますか?

約1000人の女性が住む女の園でありました。また、「大奥」というものがあるのですから、「小奥」「中奥」なんていう場所もあったのではないかとお思いになりませんか?

「中奥」という場所は存在しました。「中奥」は、将軍が政務を行ったり、夜以外の生活を行っていた場所で、今の時代ならばさしずめ、首相官邸と自民党総裁の部屋が合わさったようなものでしょうか。

残念ながら「小奥」というものは無く、その代わりといっては何ですが、「表」と呼ばれる場所がありました。この「表」は、江戸幕府の行政と立方の心臓であり頭脳であった場所で、今の霞ヶ関中央官庁が一番近いイメージです。

「大奥」は、TVや映画でもたびたび取り上げられ、必ず出てくるキャッチフレーズが「将軍以外男子禁制!」。しかしながら、実際には御三家(ごさんけ)に代表される将軍家の親戚や、御台所(みだいどころ)や側室の親戚、老中、大奥専属の医者や僧侶といった男性は立ち入ることはできたそうです。

2006年1月11日
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■江戸城到着

尾上一途(オノエ カズミチ)、ようやく江戸城の「北詰橋(キタハネバシ)門」に到着しました。

北詰(キタハネ)の「ハネ」というのは「跳ねる」という意味で、有事の際はこの橋を跳ねるように上げて遮断することにより敵の進入などを防ぐ役割を果たしていました。
ですからここは、北にある「跳ねる」橋ということで「キタハネ」と名付けられたとのことです。
北詰橋を渡ったところ、ちょうど門の下に警察官の詰め所があり、北詰橋門をくぐると直ぐ右手に受付があるのでプラスチックの管理票をもらえば江戸城入城です。

さて、今、江戸城と呼んでいるところは、正確な呼称で申しますと皇居東御苑です。江戸・東京のど真ん中「皇居東御苑」への入場ルールは次の通りです。

●入園は無料。
●出入り可能なのは「大手門」「平川門」「北詰橋門」の3箇所。
●休園日は、基本的には月曜日と金曜日。
 但し、天皇誕生日以外の「国民の祝日等の休日」は公開となり、
 月曜日が「国民の祝日等の休日」で公開となった場合は、翌日の火曜日が休園となる。
●12月28日~1月3日は休園となる。
●公開時間は以下の通り。
 ■3月1日 ~ 10月31日は、09:00~16:30
 ■11月1日 ~ 2月末日は、09:00~16:00

皇居東御苑  北詰橋
   *「皇居東御苑」案内ボード   *北詰橋(キタハネバシ)門
2005年12月16日
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■神田の古本屋さん

「神田明神」から本郷通りを約600m歩き、小川町の交差点で右折して靖国通りを5分ほど行けば駿河台下交差点(するがだいこうさてん)です。
この駿河台下交差点は6差路になっております。尾上一途(オノエ カズミチ)しばし思案し、6差路の中から神田すずらん通りを選ぶことにしました。この辺りは既に古本マニアのパラダイス、名実共に日本一の神田古書街です。

神田古書街       神田古書店
*古本マニアのパラダイス「神田古書街」風景①   *「神田古書街」風景②

立ち読み好きの私としては強い誘惑に駆られるのですが、ここで誘惑に負けていては大事なお役目が果たせません。「早く江戸城に行かなければ!」神田古書街については必ず別のシリーズで再び訪れることを一人胸に誓いつつ、今日は我慢して白山通りから竹橋に向かうことにします。
と、後ろ髪を引かれる思いで歩み出したところ、

「あれれっ……あれは何だ!?」

不思議な物を発見しました。
「銭形平次(+八五郎)の石碑」が和菓子屋さんの敷地内に建っています。お店の人に聞いてみると「<銭形平次最中(もなか)>という商品にちなんで石碑を造りました」とのこと。神田神保町に行かれたら、「銭形平次(+八五郎)の石碑」をお探しになってみてください。

銭形平次碑        銭形平次碑1
  *神田神保町にもあった!「銭形平次碑」     *「銭形平次碑」のある「橘昌文銭堂」さん

「さて、最中も食べたし、あとはもう寄り道せずに江戸城に向かうのみ!」
改めて意志を固め、江戸城に向かう尾上一途(オノエ カズミチ)でありました。
ってなことを考えながら歩いていると、ようやく「竹橋」が見えてきました。
「竹橋」を渡れば江戸城はもう目前です。
果たして城内はどんなことになっているのでしょうか?

*次回はついに「江戸城」入場です。 お楽しみに。
2005年12月 8日
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■神田明神下から江戸城へ向かう

さて、繰り返しになりますが、元禄14年(西暦で言えば1701年)3月14日昼過ぎ。
当節No.1の外科医―栗崎道有(くりさき どうゆう)、神田明神下で往診中、江戸城から火急の呼び出しを受けました。何か大変なことがおこった様子です。栗崎は急いで江戸城に向かいました。

私、尾上一途(オノエ カズミチ)もまた、「神田明神」から江戸城に向かっています。
「神田明神」から江戸城に行くには、本郷通りを、JR御茶ノ水駅を横切り、あとはまっすぐ大手町に向かい、永代通りを右折してパレスホテルを左手に見ながら江戸城・大手門を目指すのが最もシンプルでロスのない行程ですが、今回は本郷通りを小川町の交差点で右折し、靖国通りから江戸城・北詰橋(キタハネバシ)門を目指すことにします。


■「湯島聖堂」と「昌平坂学問所」

「神田明神」からJR御茶ノ水駅までの間、ふと見ると、本郷通りの左手に木々に覆われた小さな森のような一帯があります。わが国学問の聖地「湯島聖堂」です。「湯島聖堂」と忠臣蔵とは特に関係はありませんが、敢えて探せば「湯島聖堂」を建てたのが、忠臣蔵の時の将軍―5代綱吉ということくらいでしょうか。

元禄3年(1690年)孔子を祭る廟として建てられた「湯島聖堂」は、100年後の寛政9年(1797年)に「昌平坂学問所」として江戸幕府に仕える武家の師弟が勉強する場として活用され、大政奉還の後も、筑波大学やお茶ノ水女子大学が一時この地に置かれるなど、教育・学問の中枢というマインドは今に受け継がれています。

湯島聖堂案内図
↑湯島聖堂案内図


湯島聖堂  入徳門
      学問の聖地「湯島聖堂」            「湯島聖堂」で最も古い建造物「入徳門」


■徳川綱吉、最悪の将軍ではあるけれど。

さて、犬公方(いねくぼう)こと、5代将軍徳川綱吉は、良くも悪くも歴史に永遠に名を残すでしょう。
一つは、「忠臣蔵」が不滅の日本史+物語であるため(登場人物として将軍綱吉は外せません)。もう一つの理由は、人類史上例を見ない悪法「生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい)」を発令した将軍であったことです。「生類憐れみの例」は1687年の発令ですから、刃傷松の廊下の4年前ですね。「跡取りの子供が出来ないので動物を可愛がれば出来る」という恐ろしいほどに短絡的な発想から出てきたものらしいのですが、その取り締りが余りに厳しく、庶民は大いに苦しんだそうです。世界中見渡しても、石器時代以降、国家が人間より犬(やその他の動物)を重視した法律を発令した話なんて聞いたことがありませんよね。

ただし…!

綱吉治世の元禄時代は、確かに悪政の時代ではありましたが、江戸時代、いや、日本の歴史上稀に見る文化花開く時期でもありました。近松門左衛門井原西鶴松尾芭蕉尾形光琳菱川師宣、等等、各ジャンルで歴史に名を刻むアーチストや文化人が輩出されています。「悪政や圧政の時代には芸術が栄える」ことは、海外においてもしばし見受けられる現象で、まあ、人間や人間社会はそういったものであり、歴史の必然であり皮肉でもあるのでしょうが…

次回も、江戸城に向かい歩みを進めます

2005年11月30日
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■神田明神の鳥居の前で立ち止まってしまう!

私、尾上一途(オノエ カズミチ)、平成17年から再び江戸は元禄時代に戻り、「神田明神」の入口まで来たのですが、鳥居の前で思わず立ち止まってしまいました。
鳥居の真横にチョイト気になるお店があるのです。よく見てみると甘酒屋さんで、なにやら由緒ありげ、且つ江戸情緒の雰囲気が漂っています。私は特に甘酒が好きという訳ではありませんが、この立地条件にこの存在感! 神田明神を訪れる人の足を必ず止めてしまう磁力に引き寄せられるように入店し、当店自家製の甘酒一杯(400円)を所望してしまいました。癖が無くさっぱりとした上品な味で美味しかったです。明神甘酒「天野屋」さんといいまして、思った通り由緒あるお店でした。


神田明神  天野屋
       ・神田明神鳥居の前             ・明神甘酒「天野屋」さん。美味しいですよ。


■神田明神は平安京よりも歴史があるぞ!

神田明神」の鳥居をくぐり境内に入ります。
さて、ここからはフィクションではなく歴史的な事実に相成りまして。

「神田明神」は、天平(テンピョウ)2年(西暦730年)に建てられた1200年間もの歴史を持つ神社です。日本書紀が完成したのが720年ですから、その10年後には「神田明神」が建造されていたことになります。また、794年京都に都が移された「平安京」遷都の60年も前に「神田明神」は造られていたのです。江戸・東京にも、徳川時代の300年以外に、こんな古い歴史があったのです。何か嬉しくなってきませんか?
江戸に幕府を開いた徳川家康は、「神田明神」を江戸の守り神として、ことのほか崇拝し、その後の歴代将軍もこれを厚く遇してきました。また、「神田祭」は別名「天下祭」とも呼ばれ、天下第一の祭りとして、たくさんの華麗な山車が江戸城に入ることさへも許され、将軍や大奥の女性までもが上覧したとのことなので、浅野内匠頭も吉良上野介も江戸住まいの赤穂藩のお侍達も、きっと「神田祭」を楽しんだことがあったに違いありません。当然、江戸庶民にも絶大な人気があり、その余りの人気で派手になりすぎたため、徳川幕府は、年に1度の開催を2年に1度に減らしてしまったほどです。「神田祭」は、今も5月の中頃に行われますので、是非一度ご覧になっては如何でしょうか?


神田明神1  神田明神2
「神田明神」境内①              「神田明神」境内②


神田明神3  神田明神4

           「神田明神」境内③              「神田明神」境内④

2005年11月22日
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■祝・ジェフユナイテッド市原・千葉「ヤマザキナビスコカップ」優勝!

2005年11月5日(土)17:00、ここは江戸・東京の千駄ヶ谷・ナショナルスタジアム。
私、尾上一途(オノエ カズミチ)は、江戸時代から時空を超え現代に舞い戻っています。

つい先ほど、我がジェフユナイテッド市原・千葉のエース巻誠一郎が、PK戦5人目のキッカーとしてガンバ大阪を地の底に沈める一撃を放った余韻が未だ残っています。
Jリーグ発足以来苦節12年、初の公式戦タイトル「2005Jリーグヤマザキナビスコカップ」優勝!

おめでとうジェフ!ということで、ジェフサポーター・尾上一途は、今至福の時を味わっています。
今回の優勝は、もちろんプレーヤーたちに拠るところのものですが、最大の功労者であり且つジェフ随一のスターが、ボスニア・ヘルチェゴビナ出身の怪人、イビチャ・オシム監督であることに異論のあるサッカーファンはいないでしょう。


■1990年イタリアワールドカップ

1990年、国の分裂の兆しが強く生命の危険さへ抱えながら、数学教授の道を投げ打った風変わりなインテリ、イビチャ・オシムは母国ユーゴスラビアの監督として、イタリアワールドカップに乗り込み、母国をベスト8に導きました。
その後、ヨーロッパのサッカーシーンで赫々たる実績をあげたオシムが何故「Jリーグのお荷物」とまで言われたジェフにやってきたのかは謎です(あの、レアル・マドリッドからの監督要請を断ったという精度の高い情報もあります)。
オシムのサッカー監督としての力量は2003年に来日したそのシーズンから発揮され、かつての降格レースの常連であったジェフは、Jリーグ屈指のチームに生まれ変わりました。


■人間イビチャ・オシムとオシム語録

人間イビチャ・オシムは、我々日本人の目には非常にミステリアスに映ります。
サッカーファンなら知らぬ者ナシ、といわれる「オシム語録」は、インタビューや記者会見でオシム監督が語った言葉をまとめたものですが、逆説的で、皮肉っぽく、辛辣で、日本人には理解不能の諺や比喩に富み、哲学的であり、尚且つユーモアが含まれ、温かさや優しさも垣間見え、時として人生読本にも活用できる非常に深い言葉の宝石箱です。
是非、ご一読下さい。

次回もお楽しみに!!

2005年11月10日
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■神田明神下で始まる「《尾上一途版》忠臣蔵」


余談・前置きが長くなりました。

いよいよ忠臣蔵の始まりです。
元禄14年(西暦で言えば1701年)3月14日昼過ぎのことです。
当代きっての外科医であり幕府ご用達の偉いお医者様、栗崎道有(くりさき どうゆう)は、神田明神下に在る患者の家で往診中でありました。

神田明神下標識   神田明神下界隈
・「神田明神下」交差点(標識)         ・現在の「神田明神下」界隈


■銭形平次と吉良上野介はどっちが年上?

私、尾上一途(オノエ カズミチ)もまた、上野―湯島から昌平橋通りを大手町方面に15分ほど歩き、神田明神下にやって来ました。

「江戸っ子だってねぇ」

「神田の生まれよぉー」

という掛け合い言葉で知られるように、神田は江戸下町のなかでも最もシンボリックな街で、ここに暮らす住人には「俺たちこそ江戸っ子」といった独特のプライドがありました。
けれども、神田明神下と聞いて私が真っ先に思い浮かぶのは、なんと言っても銭形平次

もちろん銭形平次は架空の人物です。

あら、ひょっとして、実在の人物と思っている方がいらっしゃったのでしたら夢を壊してしまいすみません。
野村胡堂(のむら こどう)の原作「銭形平次捕物控」によりますと、平次が活躍したのは、3代家光・4代家綱の時代ですので1650年前後と推察されますが、後半の巻になりますと突如ストーリーが150年ほど進み、文政年間(1800年代の前半)の時代設定が多く見受けられるようになります。

時代考証がいいかげん? 大丈夫です。そんなこと全然どうってことはありません。

銭形平次ほどのスーパーヒーローならば、細かな時代背景なんて問答無用!
それこそ時空を超え、この神田明神下で、普段こそ、美人の誉れ高い恋女房のお静さんと仲良くイチャイチャ暮らしちゃいるが、イザ事件発生!ともなれば、最強のパートナー?ガラッパチこと八五郎を従え、ライバル(出しました!三ノ輪の万七)をはるかに凌ぐ推理力、洞察力、判断力、戦闘力をいかんなく発揮し、〆はもちろん得意必殺の「寛永通宝4文銭」(今の貨幣価値で50円くらい)を一閃!!
どんな悪党をもとっちめた上で捕捉する、痛快無比、江戸時代随一の超スーパーな岡っ引きに、こまごました取り決めなんてホント、ナンセンス!

*正解⇒銭形平は吉良上野介より50歳ほど年上、且つ、100歳ほど年下でした。

銭形平次+八五郎の碑   2人が暮らしたところ
 ・銭形平次+八五郎の碑(「神田明神」敷地内)  ・平次とお静さんが仲睦まじく暮らして
                                いたのはこの辺り?


次回、栗崎道有も、尾上一途も、江戸城に向かい歩きだします。
お楽しみに。

2005年11月 1日
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■~いつの世も 不倫の恋は 命がけ?~

尾上一途(オノエ カズミチ)、上野界隈、余りに面白く未だ留まっております。
春日通りを湯島方面に200m程歩きますと天神下の交差点で昌平橋通りに交差しました。
右手に大きな池が見えます。
「不忍の池(しのばずのいけ)」です。
ちょっと行ってみましょう。

池の中央にあるのが弁天島です。
「弁天島」は、江戸の初期に作られた人工の島で、当時の浮世絵を見ますと、「出会い茶屋」と呼ばれる今で言うラブホテルが数件立ち並んでいるのが分かります。「出会い茶屋」は、平屋で数寄屋造りの小粋な建物、別名、「蓮の茶屋」とも呼ばれていました。

ところでみなさん、当時の不義密通、今で言う不倫ですね、不義密通は現代の不倫と違って命がけの行為でした。あっ、平成の時代に命がけの不倫をしている方がいらっしゃったら大変失礼なことを申し上げましたが、そうは言ってもやはり命がけのレベルが違います。当事の不義密通は露見すれば、山田浅右衛門(やまだ あさえもん)みたいな人が出てきて、密通した2人を重ねて上から四つ切りに刻んでもお構いなしとされたくらいです。当時の川柳にこんなものがあります。

~出会い茶屋 あぶない首が 二つ来る~

平成の世に感謝したいと思います。


不忍の池   ガラクタ市
  ↑心を癒す「不忍の池」散歩道       ↑フリーマーケットも楽しい「不忍の池」のほとり    


弁天島   めがねの碑
     ↑不思議な歴史に彩どられた「弁天島」    ↑これは何?…ミステリースポット
                                  「弁天島」の「メガネの碑」


■湯島のちょっとだけアアブナイお話

「出会い茶屋」(ラブホテル)のメッカであった「不忍の池」のすぐ側はもう湯島です。
湯島には「湯島天神」という有名な神社がありますが、ここについては別のシリーズで詳しく語らせていただくこととして、今回はアブナイ系のお話をもう少し続けます。

元禄時代の湯島には、「陰間(カゲマ)茶屋」という特殊な業種の建物が存在しました。陰間(カゲマ)とは、今で言う“おかま”―ニューハーフの方々のことです。

「男色は武士のたしなみ」とする風習は、織田信長なんかが有名ですが、戦国時代から広く行われてきたもので決してイヤラシイことでも変態的行為でもありませんでした。超余談ではありますが、当時のカゲマには厳しい条件が付いており、カゲマの本職は芝居小屋の役者の卵で、下は12・3歳から上は17・8歳の美少年に限られており、その年齢以外はカゲマとは認められないしきたりがあったそうです。



湯島
↑↑しっとりとした雰囲気の湯島界隈

次回は上野界隈から離れます。お楽しみに。
2005年10月25日
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